2018年5月14日から同年12月31日までの間の礼拝説教要旨はこちら

最近における礼拝説教要旨

○2019年3月17日
 金 南錫牧師「ローマに着いたパウロ」使徒言行録28章1-16節

 パウロが一緒に船に乗り合わせた人々に「元気を出しなさい。わたしは神を信じます。私たちは必ずどこかの島に打ち上げられるはずです」と励ました通りに(27:26)、船はマルタという小さな島に漂着しました。島の住民はすぐに火をたいて、濡れた体を乾かし、暖めることができるようにしてくれました。そのとき、パウロが集めた一束の枯れ枝をたき火にくべました。すると、一匹の蝮が熱気のために出て来て、パウロの手に絡みついたのです。
 島の人々は「この人はきっと人殺しに違いない」(4節)と言い合い、「正義の女神」が蝮によって罰を与えたのだと判断したのです。彼らはパウロの身体が膨れ上がるか、急に倒れて死ぬか、としばらく様子を伺っても、パウロの身体には何の変化も起こりませんでした。
 それで島の人々は考えを変え、今度「この人は神だ」と言い出したのです。島の人々は良いことが起きればそれは神のお陰であり、悪いことが起きればそれは神様の罰であると信じました。
 それに対して、パウロたちは思いがけない暴風に遭って、マルタ島に流れ着いたのですが、島の人たちとよい関係を築き上げました。ですから、「彼らはわたしたちに深く敬意を表し、船出のときには、わたしたちに必要な物を持って来てくれた」のです(10節)。
 ローマ書8章28節に「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」とあります。人生の回り道のときに、私たちはそれを無駄だと思いがちですが、そういうときこそ、万事が益となるように、働いてくださる神に委ねていく信仰が必要です。


○2019年3月10日
 金 南錫牧師「全員が無事に」使徒言行録27章27-44節

 パウロを乗せた船は良い港から船出しましたが、大きな暴風に巻き込まれてしまいました。船に一緒に乗っている多くの人たちは、生きる望みを失い、絶望していたのです。
 しかしパウロだけが、この危機的な状況の中で、主から委ねられた自分の働きを信じて、助かる希望を抱いていたのです。そしてパウロは、一緒に船に乗り合わせた、生きる希望を失った276人の無事をも確信して「元気を出しなさい」と励ましたのです(25節)。
 本日の聖書箇所は、その励ましからすでに十四日間が過ぎたときの出来事です。27節に「十四日目の夜になったとき、わたしたちはアドリア海を漂流していた。真夜中ごろ船員たちは、どこかの陸地に近づいているように感じた」とあります。そこで、「船員たちは船尾から錨を四つ投げ込み、夜の明けるのを待ちわびた」のです(29節)。
 しかし、船員たちは、夜に自分たちだけ小舟に乗って、船から逃げようとしたのです。それで、パウロは百人隊長と兵士たちに「船員たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない」と忠告して、船員たちが逃げ出さないように手を打ちました。
 パウロの言葉を聞いた兵士たちは綱を断ち切って、小舟を海に流して、船員たちの脱走を留めたのです。そうして、夜が明けました。パウロは一同に食事をするように勧めました(34節)。
 パウロは、神の御心でなければ、頭から髪の毛一本もなくなることはないという、神への信頼があったので、希望をもって食事を勧めることができたのです。パウロは厳しい現実から逃げ出そうとした船員たちもいる中で、神に信頼し、希望を持って、今をしっかり生きることを、自分自身の姿で見せたのです。


○2019年3月3日
 金 南錫牧師「暴風の中に」使徒言行録27章1-26節

 私たちの人生は船旅に例えられます。私たちはすでに、人生の海に船出した者です。
 本日の聖書個所には、パウロのローマへの船旅において起きたことが記されています。パウロを乗せた船は、37節には「全部で267人であった」と記されています。
 パウロたち一行は4、5節を見ますと、シドンから船出しましたが、「向かい風のためにキプロス島の陰を航行し、キリキア州とパンフィリア州の沖を過ぎて、リキア州のミラに着いた」とあります。航海において、追い風を受けて、何の心配もなく前進できることもあれば、向かい風に妨げられて、前進するのに苦労することもあります。
 パウロたち一行はこのミラで船を乗り換え、いよいよイタリアへ向かいますが、7節前半に、「幾日もの間、船足ははかどらず」とあります。
 人生の航海においても同じです。しばしば向かい風に遭い、時には船の進みが遅くなるときがあります。そうした私たちの人生の航海において最も必要とされるものは、何でしょうか。それは、8節にあるように「良い港」であります。
 聖書は、私たちに「良い港」がどこにあるかを教えています。詩編107編28節から30節を見ますと、「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから導き出された。主は嵐に働きかけて沈黙させられたので、波はおさまった。彼らは波が静まったので喜び祝い、望みの港に導かれて行った」とあります。
 神様は私たちを望みの港に導いてくださる方です。ですから、この神の言葉によって、真の平安を見出すことができますよう、祈り願います。


○2019年2月24日
 朴貞蓮牧師「本当にそう思っている?」(ルカによる福音書5章17-26節)

 23節に「『あなたの罪は赦された』というのと、『起きて歩け』というのと、どちらが易しいか」とあります。この主イエスの問いは何を意味しているでしょうか。
 あなたたちには難しくて出来ないことが私には出来る、あるいはあなたがたがするように易しい方を選んだだけだということでしょうか。主イエスの問いの目的は、あれこれと考えている律法学者やファリサイ派の人々に自分自身を振りかえさせるものと思われます。
 人間には、人々に担がれてきた人を一言で癒す力もなければ、罪の赦しの権限もありません。罪の赦しは目に見えるしるしとは違うので易しいと思うのは誤解です。それは神性冒涜罪として石打ちの刑に処せされる危険性があります。
 「易しい」とは①簡単ですぐ出来る②面倒がなく穏便に済ませられる、などの意味があります。主イエスのなさることを神性冒涜と考えた律法学者やファリサイ派は、律法の権威の下、自分たちの利権を守り、面目を保ってきた人たちでありました。
 ところが、主イエスは私達のため、しかも神に背いた状態の私たちの罪の赦しのため、人々に捕らわれ、裁かれ、辱めを受け、十字架という悲惨を身に受けてくださいました。ゲッセマネの園で苦しみに悶えつつ祈られた主イエスはどちらが易しいかではなく、何が父なる神の御心であるかを問い、従ったのです。その恵みに感謝しながらレントを迎え、過ごしてまいりたいと願います。


○2019年2月17日
 金 南錫牧師「光のある人生」(使徒言行録26章19-32節)
 
 パウロは、自分が今までの歩みを止めて、神に立ち帰ったように、ユダヤ人も異邦人も、悔い改めて神に立ち帰るように伝えました(20節)。また、自分が伝えていることは、旧約聖書に示されている神様の御心に少しも反していない。ですから、「預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません」と明言したのです(22節)。
 そして「つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです」と語っています(23節)。
 ここには、主イエスという言葉は出ていませんけれども、主イエスを「光」にたとえられていることが分かります。パウロは、光であられる主イエスをユダヤ人にも、異邦人にも語り続けました。
 イエス様は「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われました(ヨハネ8:12)。暗闇の中を歩く人は、自分が今どこにいて、これからどこに行くのかを知らないのです。
 時として、心の中が暗くて寒い冬のように感じられる時があります。そのようなとき、世の光である主イエスが私と共にいてくださるのだと思うことができたら、なんと幸せなことでしょう。パウロは復活の主イエスと出会い、この幸せを経験したのです。


○2019年2月10日
 金 南錫牧師「パウロの回心の目的」(使徒言行録25章23節-26章18節)
 
 パウロは「今、私がここに立って裁判を受けているのは、神が私たちの先祖にお与えになった約束の実現に、望みをかけているからです」と語っています(6節)。この希望をもって、ユダヤ人たちは夜も昼も熱心に神に仕えながら、救い主が来ることを望んでいたのです。
 ユダヤ人であるパウロも当然ながら、そのメシアが来ることを望んでいました。そして、パウロは復活の主イエスと出会い、自分が待ち望んでいる救い主がイエスであると信じるようになりました。
 さらに、パウロは異邦人に神の福音を伝える奉仕者として、また証人として任命されました(16節)。その内容として、18節に「それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである」とあります。
 どうやって、目が開かれ、闇から光に、罪赦される聖なる者となれるのでしょうか。「わたしへの信仰によって」、即ち、「主イエス・キリストへの信仰によって」闇から光の世界に入れていただくことができます。その恵みの分け前を、まだイエスを知らない人と共にこれから分かち合える人生となれますよう、祈り願います。


○2019年2月3日(日)
 金 南錫牧師「主は今生きておられる」(使徒言行録25章1-22節)
 
 ユダヤ地方の総督フェリクスの後任総督であるフェストゥスは着任して間もなくエルサレムを訪問しました。そのとき、ユダヤの祭司長たちや主だった人々はパウロをエルサレムに送り返すようにと、フェストゥスに頼みました。
 ところがフェストゥスは、パウロはカイサリアに監禁されているのだから、彼を訴えたいなら自分と共にカイサリアに行って、彼を訴えればよいと、ユダヤ人たちに言い返したのです。その言葉に従って、ユダヤ人たちはカイサリアにやって来ます。
 フェストゥスはカイサリアに帰った翌日に、早速パウロの裁判を始めます。ところが、ユダヤ人たちは前回と同じように、パウロの有罪を立証することができませんでした。
 その反面、パウロがその裁判において語ったことは、主イエスの十字架と、復活の出来事、そしてその主イエスが今も生きておられるということでした(19節)。パウロが「イエスが生きている」と主張したということは、パウロ自身が、監禁生活の中にあっても、生きておられる主イエスとの交わりの中に生かされていたということを意味しています。
 私たちは自分の願い通り、思い通りに事が進んだときだけ神様が「生きておられる」と賛美する信仰から、思いがけない試練や困難に取り囲まれたときにも、なお「主は生きておられる」と、希望を失わない信仰へと成長する者でありたいと願います。


○2019年1月27日(日)
 金 南錫牧師「アブラハムの祈り」(創世記18章16-33節)

 本日の聖書個所は、ソドムの町がその罪のゆえに滅ぼされようとしている現実にアブラハムが直面し、なんとかそれを回避するために、神に祈っている箇所です。祈りとは、その静かなイメージとは裏腹に、実に激しいものなのです。アブラハムの祈りはねばり強く神様に向かって迫っていくのです。
 「もし、ソドムの町に50人の正しい人がいるなら、それでもソドムを滅ぼされるのですか。正しい者を悪い者と同じように滅ぼすのは、正義ではない。あなたは全世界を裁かれる方なのですから、そのような不正義をするはずがないでしょう」、アブラハムはそう言って、神様に迫るのです。
 アブラハムは、神様がソドムの町に50人正しい人がいるならば、その町全部を赦そうと言われると、今度は更にそれより5人少なくても、ダメですか。それでも神様が良いと言われると、更に40人なら、30人なら、20人なら、とうとう、10人でも良いと言う所まで迫っていくのです。ここに、ソドムにいる神の民が救われるために、ねばり強く祈るアブラハムの情熱が現わされています。
 祈りとは、神様に対する情熱であると、言われます。私たちが最初に主イエスにであったときの心、情熱を持ち続けているのであれば、いつも熱心に祈り続けられるはずです。このような意味で、真のクリスチャンの人生は、ひとつの長い祈りの人生であると、言うことができます。
 しかし、神様に対する初めの情熱を失うと、祈ることも弱くなっていくのです。信仰生活において、祈りの代わりになるものはないのです。クリスチャンにおいて、祈り無しに、成し遂げられることは何もありません。
 今年一年間祈ることが習慣になって、アブラハムのようにねばり強く祈られますように。そして、神様が、その祈りを通して、私たちの人生を導いていくように、祈り願います。


○2019年1月20日(日)
 金 南錫牧師「苦難と神の摂理」(使徒言行録24章17-27節)

 パウロは自分が無実であるということを具体的な状況を挙げて説明します。17節に「さて、私は、同胞に救援金を渡すため、また、供え物を献げるために、何年ぶりかで戻って来ました」とあります。
 パウロは自分のエルサレム訪問の目的が騒動を起こすためではなく、エルサレム教会のために、異邦人教会が献げた献金を渡すためであり、その折、神殿の清めの儀式に参加して供え物を献げただけであると、パウロは明らかにしています。そして、騒動が起こったのはパウロの命を狙って、アジア州から来た数人のユダヤ人が原因であって、もし異議があるなら、彼ら自身が告発すべきだと主張しました(19、20節)。
 しかし、総督フェリクスは、ユダヤ人の告発とパウロの弁明を聞いて、「千人隊長リシアが下って来るのを待って、あなたたちの申し立てに対して判決を下すことにする」と言って、裁判を延期しました(22節)。実際には2年間も判決を出さずにいました(27節)。パウロにとって、神の御心がどこにあるのか、考えざるを得ない時でした。
 摂理という言葉は英語で、providenceと言います。「pro、先に」「vidence、見る」「先を見る」という意味です。神様は私たちが見るより、もっと先の先までご覧になっておられる摂理の神です。パウロはこの二年間の監禁生活を通して、すべてを見ておられる神の摂理を信頼し、苦難を乗り越えたのです。


○2019年1月13日(日)
 金 南錫牧師「良心とまことの信仰」(使徒言行録24章1-16節)
 
 エルサレムで捕らえられたパウロは、カイサリアに護送され、総督フェリクスのもとで裁判を受けることになりました。
 「実は、この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の主謀者であります」(5節)。弁護士テルティロは、パウロが疫病のような悪い影響を人々に与えてユダヤ人を混乱させたと、総督に訴えたのです。また、「ナザレのイエス」の教えに従う人々の分派活動の首謀者だと言われました。
 しかし、パウロは神の御前に立って、大祭司たちの二つの告発に対して、自分の立場をはっきりと弁明しました。
 「しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています」(14節)。そして、「こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています」と言っています。
 人はそれぞれ何かをよい状態に保つために、日々最善の努力を重ねている者です。ある人は健康を保つために一生懸命運動したり、食事を少なめにしたりして、最善を尽くしています。しかし、ここでパウロが証しているように、神と人の前に良心に責めがないように最善を尽くす人は、はたしてどれだけいるのでしょうか。


○2019年1月6日(日)
 金 南錫牧師「神の御手に」(使徒言行録23章12-35節)
 
 今パウロは、ユダヤ人たちの手が届かないローマ軍の兵営に囚われています。そこでユダヤ人たちは、祭司長たちに、パウロを最高法院においてもっと詳しく調べるという口実で、連れて来るようにとの願いを千人隊長に出してもらうように頼みました。彼らは、パウロが兵営から最高法院に連れられて来る途中に殺すという計画を立てたのです。
 しかし、この陰謀をパウロの姉妹の子が聞き込み、兵営の中に入って来て、パウロに知らせたのです(16節)。自分の甥の知らせで、このユダヤ人たちの計画を知ったパウロは、百人隊長に申し出て、自分の甥を千人隊長のもとに連れて行ってほしいと願い出ています(17節)。そこでパウロの甥はすぐに千人隊長のもとに連れて行かれ、この計画が千人隊長に知らされることになります。
 この計画を阻止するために、パウロは馬で470名の兵士たちに守られて、カイサリアまで護送されました。まさに、命の危険にさられていたパウロは神の御手によって救われました。フィリピの信徒への手紙1章12節で、パウロは「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」と語っています。
 パウロは囚人のままですが、これは、キリストの福音を宣べ伝えるために、ローマへ行くという目的からすれば、大きな前進であると受け止めたのです。クリスチャンは、いかなるときにも神の御手にゆだねる人であります。